![]() 姫路地方ではかって「ゆかた」は長壁(おさかべ)神社の例祭から着る習わしとなっていたので、古来よりこの祭りは「ゆかた祭」として広く一般に知られて来ました。(今はそんな習わしは誰も知りませんが・・) 今では西日本一(日本一という説もあります)夜店の集まる祭りとして人気を集めています。 「ゆかた祭」は江戸・吉原から高尾太夫を身請けするなど、風流大名として名高い榊原政岑が(その行いから)越後に封印される際に姫路の思い出に永久に残しておくに相応しい行事として、庶民も城内にあった長壁神社の参拝ができるように長源寺境内に社を造営させ、御神璽を竪町に遷したのがはじまりです。(この日が今から210余年前の寛保2年5月夏至の日でした) この時、遷座祭に奉仕する人々の式服を調整する間がなく許しを得て「ゆかた」を着たことから、毎年例祭に参拝する人々がそれにならって「ゆかた」を着るようになり、その後「ゆかた祭」と呼ばれるようになったと言われています。しかし、実際には高尾太夫から江戸神田の明神祭の模様を聞いて姫路でもそんな祭りを開催したいと考えた政岑が、隠居の身を幸いに自らゆかた姿で高尾と共に浮かれ出たのが本当の話だ・・とも言われています。 この祭で廻り灯籠を神社前の十字路につるすのは、元来城内で行っていた走馬の神事を市内でとり行うのが難しいためだったとされていますが、実際には政岑をしたう姫路の人々が越後に移封される殿様の心をなぐさめようと製作奉納したのがはじまりと言われています。 |
![]() 姫路市灘浜地区、松原八幡神社の秋祭りをその荒々しさから人は「けんか祭り」と呼びます。 なにせ私の子供の頃は毎年死人が出たほどその名の通り本当にはげしいお祭りです。私も何度か桟敷に招待され見物しましたが、いつも人間としての魂を揺さぶられるほどの衝撃を感じずに入られません。 屋台(やたい)を練り始めたのは250年前から。けんか祭りの異名にちなむ神輿(みこし)のぶつけ合いは神功皇后の三韓出兵の故事に由来し、シデ竹は波を表し、ぶつけ合うのは船べりについたカキを落とすため、勇ましいかけ声は武士の力声と言われています。 この祭りが盛んになった理由には、当時の姫路藩の政策があったとされています。 姫路藩の財政再建をしたことで有名な家老・河合寸翁は民衆の蓄えているエネルギーや財力を吐き出させ、村同士を競争させることによって、民衆の大きな力を分散させようとしました。そこで藩は大いに祭りを奨励しできるだけ派手に行うことを指導したと伝えられています。 ちなみに写真は屋台の練り合わせです。有名なぶつけ合いは神輿で屋台(ひとつ1億円以上)はぶつけません。また、屋台には人が乗り太鼓をたたいていますが、神輿には神様を乗せているので人は乗りません。・・・屋台と神輿の違いがお分かりになりましたでしょうか?ヨーイヤサァ!(^O^
|
ひめじ良さ恋まつり 正式な名称はひめじ良さ恋まつり(姫路よさこい祭りは間違い)と言います。 よさこい祭りは1954年8月。高知商工会議所の音頭取りで誕生。 その後、1991年。北海道の一人の学生が高知を訪れ、その街中に響き渡るよさこい節と鳴子のリズム、同年代の若者がイキイキと踊っている姿に強い衝撃を受け、翌年の1992年、札幌で第1回YOSAKOIソーラン祭りを開催。 YOSAKOIソーラン祭り成功は全国に飛び火し、よさこいブームが誕生。現在では全国200ケ所で開催されるようになりました。 我がまち・姫路でも2000年から開催され、最近ではすっかり定着した感があります。 ひめじ良さ恋まつり・公式ホームページ |
![]() 金曜日には姫路城・三の丸広場での薪能(たきぎのう)、土曜日には一日中、大名行列や千姫輿入れ行列、サンバ隊、ちびっこ吹奏楽、企業アピール隊、総おどりなど各種パレードが延々と続く祭りです。あっそうそう、お城の女王の発表会もあったはずです。 ただ、行政主導型の祭りのせいか?パレードはイマイチ盛り上がりに欠け、見物人より、参加者の方が多いのでは?とカゲ口も聞こえてきます・・・ |